鳶巣の史跡


このページは 鳶巣コミセン便り からの抜粋です




第503号(令和8年3月30日)
青木遺跡(3) ~ ふるさと鳶巣物語から ~
 奈良時代後半から平安時代初頭の青木遺跡は、「出雲国風土記」(733年完成) の書かれた時代の行政単位では、出雲郡伊努郷と美談郷の境界付近にあたります。
 調査の結果、神社施設の可能性を持つ建物跡や石敷きの井戸跡など祭祀遺構、多量の墨書土器と木簡などの文字資料、神像や絵馬など信仰関連の遺物が出土しています。これらからみれば、「役所」と「祭祀場所」という二つの役割を持っていたようです。
 掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)のなかに、神社の建物であった可能性のある建物跡があります。二間×二間の総柱建物で、平面の大きさは一辺3.3mと比較的小規模なものですが、中心の柱がひとまわり太くて深く、埋め込みは1.2mあり、外側の8本の柱と比較して最大で0.7mも深く据えられていました。この建物の中心柱は、床上の小屋根あるいは棟まで達していた可能性を示しているもので、出雲地方に多く分布している大社造の神社建築様式に共通するものと思われます。
なお、この建物跡は復元されています。
第502号(令和8年3月5日)
青木遺跡(2) ~ ふるさと鳶巣物語から ~
 弥生時代の青木遺跡は、四隅突出型墳丘墓を中心とする集団墓地であることが分か りました。その中には、日本海沿岸では初めてとなる古いタイプの四隅突出型墳丘墓も含まれています。
 四隅突出型墳丘墓は、地域の有力者のために造られた特別な墓です。
 墳丘の四隅が突き出た形で墳丘斜面に石を貼り(貼石)、その周囲に寝かせた石(敷石)と立てた石(立石)があるのが特徴です。山陰地方独特の墓で、弥生時代の終わりに全盛を迎え、西谷三号墳(出雲市大津町)が最大級の四隅突出型墳丘墓として知られています。
 この他にも方形貼石墓や土を掘って穴を掘りそこに遺体を納めた土壙墓(どこうぼ)など多様な形式の墓がたくさん見つかっています。方形 【復元された四号墓】貼石墓は、四隅突出型墳丘墓と同じように墳丘斜面に石を貼り付けていますが、突出部がない墓です。
 青木遺跡では4墓以上見つかっていますが、残りが悪く大きさや時期などは分かっていません。
 また遺物には、多量の弥生土器の他に銅鐸片が墓の中から人骨と共に出土するなど、全国で初めての発見もありました。なお、青木遺跡には四号墓が復元されています。
 【鳶巣の歴史を語ろう会】

第 500 号(令和 8 年1月5日)
青木遺跡 ~ ふるさと鳶巣物語から ~

 青木遺跡は、国道431号東林木バイパス建設事業に伴い、平成11年度に分布調査が行われ発見されました。
 平成12年度に遺跡内容を知るための確認調査が行われ、中世の集落跡が確認されたため、平成13年度から本格的な発掘調査が開始されました。
 そして、中世遺構面の下層に弥生時代から奈良時代の遺構・遺物が存在していることが分かり、一部調査計画を変更して平成15年度まで調査が継続されました。
 調査では、様々な新発見が相次ぐなど、全国でも一躍注目される遺跡となりました。
 調査の結果、耕作面から約1m下層に中世の遺構面(生活面)、2.5m下層に古代(奈良~平安時代)の遺構面、 2.8m下層に弥生時代の遺構面があったことが分かりました。
 各時代の主な遺構・遺物として、中世では掘立柱建物跡、柵列、中世墓などが、古代では神社施設の可能性を持つ建物跡や石敷きの井戸跡などの祭祀に関連する遺構、多量の墨書土器と木簡、神像や絵馬などの遺物が発見されました。
 また、弥生時代では出雲地方で出土例のない近畿式銅鐸の飾り耳を伴った埋葬人骨や4墓以上の四隅突出型墳丘墓などが見つかりました。
 【鳶巣の歴史を語ろう会】

第499号(令和7年12月5日)
大寺古墳 ~昭和34年8月出雲市指定史跡~
【写真:大寺1号墳後円部】
 大寺薬師仏像収蔵庫の裏手、通称大寺山にある大寺古墳(1号墳)は、古墳時代前期(4世紀後半)に造られた出雲地方最古の前方後円墳です。墳丘は、全長52m。後円部系約27m。
 前方部は正面幅が約14mと狭く、平面形態は撥型(ばちがた)です。北山南麓の標高30mの尾根を削って整地した上に盛土し、一段のテラスをもつ墳丘を造りだしています。埴輪(はにわ)はありませんが、表面に葺石(ふきいし)を貼り、墳端(ふんたん)には石を並べていたことが分かっています。
 埋葬施設は、後円部中央に板状の割石を積み上げて造られた竪穴式石槨が設けられています。石槨(せっかく)は長さ約4m、幅約80cm、高さ約70cmを測ります。床面には粘土が敷かれ、割竹型木簡(わりたけがたもっかん)が安置されていたと考えられます。
 副葬品は、石槨内から鉄製鍬(鋤)(くわ・すき)先と鉄斧(てっぷ)が各1点出土しているのみですが、幅約17cmを測る鉄製鍬(鋤)先は、古墳時代の例としては国内最大です。
 また、前方部からは、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)が一点出土しています。
    【鳶巣の歴史を語ろう会:出雲市文化財課資料提供】

第498号(令和7年11月5日)
大寺薬師(その3) ~ふるさと鳶巣物語から~
【現収蔵庫が建設される前の薬師堂、鐘撞堂】
 大寺薬師に係わる伝承を紹介します。
  「 推古天皇が眼病を患らわれた時に、出雲国林木の郷に霊験あらたかな祈祷を行う高徳な行者智春上人と申す者が居るということが天皇の耳に入り、天皇の眼病平癒(へいゆ)を祈祷させるために勅使を送られた。
 勅使が林木の郷に着かれた時、智春上人は野に出て働いておられた。それを知った智春上人は野良着ではおそれ多いとして、「やらずの法(前に進めない催眠の術)」という法力をもって勅使を足止めにして、法衣にあらためて対面されたという。
 そして、九十九折りの山坂を超え、奥の院不老の霊山で祈祷をされたところ、不老滝より不思議な霊水が湧き出した。その霊水を捧げたところ、日ならずして天皇は快癒(かいゆ)せられたという。」こうしたことから、いまでも国道431号から大寺薬師に至る道を「やらず坂」と呼んでいます。
 なお、この伝承は鰐淵寺にもほぼ同じ内容で伝えられています。
【鳶巣の歴史を語ろう会】

第497号(令和7年10月5日)
大寺薬師(その2) ~ふるさと鳶巣物語から~
【多聞天】 【広目天】【持国天】 【増長天】
 令和2年1月~2月にかけて東京国立博物館で開催された日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」において、出雲を代表する平安仏として出展された四天王立像(広目天立像、持国天立像、増長天立像、多聞天立像)は、いずれもカヤの木の一木造りで等身を超える雄大な立像です。これらの仏像は、天平様式を残した出雲様式と言われ、美術的にも優れた作であるということが学会の定説となっています。
 的野克之氏の「平安・鎌倉時代の木彫仏」(抜粋)には、『四天王立像は、四躯(しく)ともに両手先や持物が後補のため、その姿勢に若干不自然なところがあるが、それを差し引いてもこの諸像を見ると、その堂々とした像様、大地をしっかりと踏みしめるような下半身、怒りを内に秘めたような忿怒(ふんぬ)の表情など、抑制された像の動きの中で全てに破錠がなくうまくまとめられており、中央の仏師の手になるものと考えてよいのではなかろうか。これほどの四天王立像を安置していた寺院の往時の規模は相当なものであったと想像できる。』と、記載されています。
【鳶巣の歴史を語ろう会】


第496号(令和7年9月5日)
大寺薬師(その1) ~ふるさと鳶巣物語から~
 大寺薬師は、全国に誇る美術品ともいうべき仏像を多数安置している寺院にも拘らず、その創建についての根拠等を伝える文書は何一つありません。その歴史を語るには、どうしても人々の伝承に頼らなければなりません。
 大寺薬師は、智春上人(ちしゅんしょうにん)によって、594年(推古2年)に創建され、北山の日本海側に位置する鰐淵地区別所町の鰐淵寺(がくえんじ)の創建と同時期と考えられています。
 伝承では、741年(天平13年)に僧行基が諸国巡歴の途中「大寺」に留まって薬師如来をはじめ多くの仏像を刻み、金堂、阿弥陀堂、釈迦堂、観音堂、七重大塔などを建て、諸仏を安置し護国の道場としたと言われています。往時の「大寺」は、現在地から300メートル奥の通称「広瀬」にあったと言われていますが、1650年(慶安3年)の大洪水による山崩れのため、寺堂や仏像の多くが破壊、埋没しました。その後、地域住民が薬師如来坐像ほか残存の仏像を集め、現在地の萬福寺境内に三間四面の薬師堂を建立し安置しました。
 薬師如来坐像1体、脇侍菩薩立像4体、四天王立像4体の合わせて9体が、1902年(明治35年)に国宝に指定されましたが、戦後、法律が変わり国指定の重要文化財となりました。また、これらの仏像と共に、十二神将(じゅうにしんしょう)も揃って祀られています。
【鳶巣の歴史を語ろう会】

第 495 号 (令和7年8月5日)
鳶ヶ巣城と霊雲寺(その2) ~ふるさと鳶巣物語から~
【写真:霊雲寺】
 鳶ヶ巣城最後の城主、宍道政慶(しんじまさよし)についての記録は、実ははっきりしていません。何時どこで没したのかについては、「1585年(天正13年)6月3日【過去帳】」「1593年(文禄3年)6月3日【位牌裏】」「1608年(慶長13年)長州萩で死す【宍道町誌】」など諸説あります。
 神社の棟札や、高麗出陣の記録、あるいは「晩年萩より出雲に帰り、霊雲寺で剃髪出家した」という宍道家の言い伝え等から考えると、同じ13年でも慶長13年没が正しいかもしれません。
鳶ヶ巣城が廃城となり、頼るべき人々を失った霊雲寺は、しばらく衰退の一途たどることになります。
 1650年(慶安3年)、京都の興聖寺より天珪和尚を拝請して中興の開山としました。しかし、1764年(宝暦14年)正月の記録には荒廃している旨が記されており、現在の建物が再建されたのは、その後のことと思われます。
  宍道政慶を祀ったものだと伝えられている霊雲寺本堂の位牌、裏山の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、ともに何も語ってはくれませんが、いずれにしても霊雲寺の開基が宍道政慶であることは疑う余地のないものだと思います。
【鳶巣の歴史を語ろう会】

第 493 号 (令和7年6月5日)
戦国の山城 鳶ヶ巣城(4)~ふるさと鳶巣物語から~
1569年(永禄12年)、出雲国の奪回を目指す尼子再興軍(山中鹿之助らが尼子勝久を擁して蜂起した軍)が、島根半島から上陸し、毛利方の城となっていた月山富田城への攻撃を始めます。この時も、鳶ヶ巣城は尼子攻めの拠点のひとつとなりました。それは、鳶ヶ巣城が日本海に面した杵築港から内陸港の平田に向かう物資が通過する重要拠点であったからだと思われます。こうしたことから、毛利元就(もうりもとなり)は、鳶ヶ巣山の山麓に広大な駐屯空間を増築したり、兵站機能(武器の修理や食料補給機能)を充実させたりしました。
 1571年(元亀2年)毛利軍は、尼子方の出雲西部の拠点である高瀬城(斐川町)の米原綱寛(よねはらつなひろ)を攻め降伏させたり、尼子再興軍の拠点となった松江の新山城(真山城)から退却させたりなどし、尼子再興軍を出雲国から一掃しました。
1582年(天正10年)、城主となった宍道隆慶(しんじたかよし)の子政慶(まさよし)による鳶ヶ巣城の改築が完成します。しかしながら、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで西軍が敗れ、総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)の領地が周防と長門に縮小されたことから、宍道政慶も毛利氏に随行し萩に行くことになりました。城主を失った鳶ヶ巣城は、自然廃城となっていきました。 【鳶巣の歴史を語ろう会】

第492号(令和7年5月2日)
国の山城 鳶ヶ巣城(3)~ふるさと鳶巣物語から~
  1528年(享禄元年)に家督を継ぎ、山陽側で勢力を誇っていた大内義隆(おおうちよしたか)が、1551年(天文20年)に家臣の陶晴賢(すえはるたか)のクーデターにより自害し、その陶晴賢も毛利元就(もうりもとなり)によって自害に追い込まれました。こうして力をつけてきた毛利元就は、1560年(永禄3年)に尼子晴久(あまごはるひさ)が死没したことを受け、尼子攻めを行うことにしました。
 1562年(永禄5年)毛利元就は、鳶ヶ巣城を甲城(つめしろ)とし、尼子氏攻略の拠点としました。この時、鳶ヶ巣城には鉄砲部隊を配置しました。毛利軍に従軍した宍道隆慶(しんじたかよし)と政慶(まさよし)は、20年振りに城主に復帰しました。
 約4年続いた月山富田城攻防戦は、毛利氏の勝利に終わり、出雲国は毛利氏の支配するところとなりました。宍道氏は、この戦いの功績により秋鹿郷の一部、島根郡の一部を加増され、北山手各郡の武将を支配する地位に立たされました。
  そして、鳶ヶ巣城主宍道隆慶は、城下のまちづくりに尽力するようになります。まず、長年の戦乱で疲弊した農村の復興と荒れ果てた社寺の再建修築に努めました。鰐淵寺や日御碕神社の造営、霊雲寺の移転改築、都我利神社、伊努神社の遷宮などに多額の造営費を寄進したということが棟札からも推察できます。
【鳶巣の歴史を語ろう会】

第 491 号 (令和7年4月7日)
戦国の山城 鳶ヶ巣城の歴史(2)
 大永年間(1520年~30年)になると、尼子経久(あまごつねひさ)は、山 陰山陽の11州(出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備後、備中、備前、石見、播磨、安芸)に勢力を伸ばし、周防や長門、北九州に勢力を振るった大内義隆(おおうちよしたか)と中国地方の覇権を争う雄将となっていました。
 しかし、経久の子政久(まさひさ)が阿用の戦いで討死し、経久も高齢となったことなどから、孫の晴久(はるひさ)に頭領を譲りました。そうした中、播磨や安芸など各地の武将が反旗を翻したことから、制圧を試み1541年(天文10年)に、安芸国の郡山城に大軍を送りましたが、毛利・大内の連合軍に撃退され大敗してしまいました。
 宍道氏は、尼子軍に加わり参戦しましたが形勢が悪いと見るや撤退しました。また、同年11月には、尼子経久が失意のうちに病没します。そして、宍道氏と尼子氏の仲は修復できない状況になっていきました。
  翌1542年、大内義隆は毛利元就と共に、尼子氏の居城月山富田城攻めを行います。宍道氏は大内・毛利連合軍に加わり尼子攻めに参戦します。鳶ヶ巣城は、大内軍の湖北作戦の基地として重要な役割を担いました。しかしながら、大内・毛利連合軍は大敗してしまい、城主宍道隆慶(しんじたかよし)は、籠城して防戦に努めましたが落城してしまいました。
 そして、宍道氏は、周防(山口)へ大内氏を頼って逃げ延びました。約30年続いた鳶ヶ巣城は城主の無い城となりましたが、鳶ヶ巣城には、尼子方の武将が在番していたという伝えも残っています。
【鳶巣の歴史を語ろう会】

489号(令和7年2月5日)
伊努(いぬ)神社
【写真:伊努神社】
 西林木の前組町内の東よりに、樹齢数百年の大欅に囲まれた神社があります。神社の名は伊努神社と呼ばれ、西林木の総氏神として祀られています。
 伊努神社は、出雲国風土記や延喜式に載る古社で、古きは伊努郷の郷社であったと言われています。伊努神社は、元々伊努谷川の上流、小床という地名の場所にありましたが、戦国時代に鳶ヶ巣城主・宍道政慶氏が日下境いの神田という所に社殿を移しました。
 その数十年後、荒廃した神社をみかねた地元の住民たちが現在の地に遷座建立されました。御祭神は、赤衾伊努意保須美比古佐和気能命(アカブスマイヌオホスミヒコサワケノミコト)という「沖積地の守護神」であり「水の神」です。
 また、伊努神社の位置は、出雲国風土記の時代の伊努郷の中心部にあり、伊努谷川の扇状地の扇頂付近に鎮座しています。また東に「大寺」西に杵築大社など信仰圏を控え、峠を越すと鰐淵寺川の上流に出て日本海に通じ、南は低地に接しています。
 近年発掘されて注目された山持遺跡の遺構、物流の拠点となる「古代道路」が証明されるように、いわゆる「四通八達」(四方八方に道路が広がり、交通網が発達していて、交通や往来が盛んでにぎやかな場所のこと)の要衛にあります。伊努神社の例大祭は毎年4月29日に執り行われます。(I.K)

第488号(令和7年1月7日)
都我利(つがり)神社
【写真:都我利神社社殿】
  前口西町内の国道431号沿いにある108段の石段を上ったところに、都我利神社があります。 この神社は、出雲国風土記に記載された伊努社四社、伊農社三のうちの一社に相当します。古代、中世の事情は明らかではありませんが、寶永3年(1705年)の「神社書出帳控」を見ると「楯縫郡東林木村都我利神社、神名帳在出雲郡都我利神社此社也。八王子大名神、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのみこと)」と記されています。
 当時この社は八王子大名神ともいわれ、延喜式(928年)巻十神祇神名の頃に「つがりのかみのやしろ」「都我利神社」と、記された式内社です。また、出雲風土記(733年)の出雲郡の項に「伊農の社」とあるのが当社であると、風土記研究家の加藤義成氏が指摘しています。
 言い伝えによると、社殿は古くは門上町内の山の上、八束又は蜂塚と言われる場所にありましたが、山崩れなど何らかの事情によって今の場所に建立されました。今の場所は古墳遺跡の頂部を削りとり、社殿を創建されたと言われています。
 なお、都我利神社の例大祭は11月3日に行われますが、祭の行事として昔から伝えられている神輿美幸行列が行われ、御祭神がとおる路を番内が青竹を叩き清める様が見られます。
(Ⅰ.K)


第487号(令和6年12月5日)
蓮光寺と西国三十三ヶ所観音小堂群
 蓮光寺は、川北町内の山腹にあり、新川桜土手から北西に見える臨済宗妙心寺派のお寺です。江戸時代中期の元文2年(1737年)意宇郡竹矢村(現松江市)から移され中興したと伝えられています。
 参道にある西国三十三ヶ所観音の小堂群は、観音信仰が盛んであった江戸末期、地方信者に依って一堂ごとに寄進され、西国観音の霊を勧請されたものです。西国三十三ヶ所観音とは、大和長谷寺の開山徳道上人が閻魔大王様の勧めで世の中の悩み苦しむ人々を救うために、三十三の観音霊場を開き、観音菩薩の慈悲の心に触れる巡礼を勧めなさいと、起請文と三十三の宝印を授けられたことが起源です。
 西国三十三ヶ所の総距離は約千キロにおよび大阪、和歌山、岐阜など2府5県にまたがります。政治文化の中心であった京都には、三十三ヶ所のうち三分の一の札所寺院が集中していることから憧れの巡礼路として、その人気は全国に広がりましたが、巡礼が困難な人々のために各地に写し霊場が創設されました。蓮光寺の小堂群も往時は、西国観音霊場の身近な信仰の場として、多数の信者が巡拝していました。
(I.K)

第486号(令和6年11月5日)
玉泉寺の十王尊(地蔵堂)
【玉泉寺の十王地蔵尊】
 大寺谷町内の玉泉寺の広場に、十体の地蔵尊が祀ってある十王尊の地蔵堂があり ます。この十王尊堂は、前口東町内にあった園山家が宅地内に所持されていましたが、令和4年6月に玉泉寺の広場に移転、落慶法要されました。
 十王尊堂の創建の内容や時期は不明ですが、この十王地蔵尊は地元では「子供を救い供養する地蔵」として親しまれ拝まれています。災や病の子供の病気回復地蔵として、この十王地蔵尊を拝むと「夜泣き・疳の虫」「夜尿症」「知恵熱」が治るとされ、時々、孫や子供を連れた人たちの姿が見られます。
 地蔵信仰は、中国仏教の聖地安徽省にある九華山が聖地で、今日まで信仰を集めているものです。日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を求めるようになり、賽の河原で責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰が広まりました。
 また、十王思想とは冥界で死者の罪業を裁く10人の王で、10人の王ところに行って10回の裁きを受けるという思想です。
(I.K)


第485号(令和6年10月5日)
龍善寺の鐘桜(しょうろう)山門(さんもん)
【写真:龍善寺鐘楼山門】
 龍善寺(西林木前組)の参道に鐘楼山門があります。江戸時代中期の寛保元年(1741年)に、龍善寺六世・利恭法師によって鐘楼山門建築が計画され、地元西林木の大工の棟梁原清八や東林木の木挽金築勘四郎たちによって建立されました。
 そして、寛保3年(1743年)に播州(兵庫県西部)から鋳物師を迎え、洪鍾(大梵鐘)を作り、法要が行なわれました。鐘楼山門は、見た目は「粗削りながら、入念な構造」になっており、出雲地域では珍しい江戸時代の代表的な建築物だと言われています。また、建築材料に「ケヤキ」を用いてあることから、長期保存にも耐える建築物であり、今も存在感を放っています。洪鍾は、太平洋戦争の際、金属類回収令のため軍隊に撤収され残念ながら現在はありません。
 なお、昭和61年に行われた鐘楼山門修理工事の際に発見された観音扉の墨書きによると、文政11年(1828年)に再度棟上げされています。このように、鐘楼山門は建築後、何らかの災害にあい損壊し、数回にわたり修理、落慶法要が行われているようです。
(I.K)


第483号(令和6年8月5日)
霊雲寺の3禪師画像
【写真:3禪師画像】
 奥ノ谷町内にある霊雲寺には、出雲市指定文化財の吉山明兆(きつさんみんちょう)筆と言われる3禪師像の掛軸が所蔵されていますが、今は奈良の国立博物館に寄託されています。
 明兆(1352~1431)は、室町初期の東福寺の画僧です。淡路島に生まれ、若くして同地の安国寺に入り、大道一以の弟子となり、師より吉山明兆の道号と法諱(ほうき)を授けられました。
 逸話として伝わっている話には、安国寺において画ばかり描き禅の修行を怠ったので、師から師弟の縁を切られ、大道に捨てられた破れ草鞋(わらじ)にたとえ、自ら〈破草鞋(はそうあい)と号し、後に〈破草鞋〉の印章を用いたそうです。
 その後、彼の画才が認められてからは大道和尚に従って東福寺にのぼり、終生、堂守の殿司(でんす)の職となり〈兆殿司〉と呼ばれて画僧として活躍しました。明兆筆と言われる作品には、国宝や重要文化財となっている作品がいくつかあります。
 霊雲寺所蔵の3卷の掛軸には、中国宋時代の仏鑑禪師像、中国唐時代の臨済禪師像と百丈禪師像が描かれています。いずれも古代中国で、臨済宗の開祖と言われている僧や禅宗の百丈規定を定めた僧と言われる高僧が描かれている掛軸です。3禪師像の掛軸は、霊雲寺12世住職の伊菴和尚(1819~1902)が購入されています。
(I.K)

第482号(令和6年7月5日)
大寺薬師があったとされる広瀬(ひろせ)
【写真:現在の広瀬】
 往時の大寺薬師は、大寺谷町内の万福寺から約300m奥の通称「広瀬」と呼ばれる地にあったと伝えられています。
 智春上人によって創建されたと伝わる大寺薬師は、慶安3年(1650年)の大洪水による山崩れで、寺堂や仏像の多くが破壊・埋没しましたが、住民たちの手により薬師如来坐像ほか残存の仏像を集め、万福寺境内に薬師堂を建て安置しました。
 現在、広瀬の地には石積みがたくさん見られますが、畑または屋敷の葺石かと思われます。また、その一角には、鎌倉時代前後に造られたと思われる石灯籠や五輪の塔の一部も確認されますが、近代まで尼寺があったと言われていますので、それに関係するものと思われます。
 また、大寺前町内の住宅建設の際に発掘された古い瓦は、広瀬から流出したものと思われ、奈良時代に松江市の山代町にあった四天王寺址の瓦と「同范瓦」だったということも分かっています。松江の四天王寺は、奈良時代(750年頃)に「出雲臣弟山」が建築した寺院と言われていますので大寺薬師も同じ頃、同じ人物が建築したものと考えられています。
 静寂に包まれた現在の「広瀬」は、かつて仏教が繁栄した頃の幻影が広がる聖地のような場所だと実感される遺跡です。
(I.K)

第481号(令和6年6月5日)
青木遺跡
 青木遺跡は、平成13年度から始まった国道431号バイパスの敷設工事で発 見された遺跡で、一畑電鉄大寺駅の北東に位置しています。
 青木遺跡の発掘では、鎌倉・室町時代の村跡や土器や木製品が発見されました。また、奈良・平安時代の神社跡(堀立柱建物跡)や石敷き井戸跡(祭祀に使われたと思われる神聖な井戸)、100点近くの木簡、絵馬や神像など多くの遺物や遺構が発掘されました。
 加えて、弥生時代の四隅突出型墳丘墓をはじめ方形貼石墓(石を貼った四角いお墓)など、多様なスタイルのお墓もみつかっています。現在青木遺跡には、四隅突出型墳丘墓の形をしたモニュメントが造ってあります。「出雲国風土記」によれば、当時の出雲国には 399もの神社があり、大社造と似た構造の複数の社殿から構成された奈良時代の神社の姿が詳細に明らかになりました。
 また、青木遺跡が「伊努社」「美談社」「縣社」という神社のまとまりであったことや、周辺の人々が物資(出挙利稲)を持ち寄ることによって運営されていたことなどから、東林木の山麓の青木遺跡周辺に伊努郷の郷社があったと実感される遺跡です。
(I.K)
※出挙利稲…利子付き貸借の返済時に徴収された利息のことです。

第480号(令和6年5月2日)
大寺薬師の仏像
 大寺の仏像は、行基(668~749)が薬師如来をはじめ多くの仏像を刻んだと言われています。 
 収蔵庫内に保管されている仏像の中でも、薬師如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像、観音菩薩立像2体、四天王立像の9体は、鎌倉以前に作られた木彫りの仏像です。明治35年(1902年)に国宝に指定されましたが、制度改正により現在は国の重要文化財となっています。
 カヤの一木から彫り出された四天王立像は、令和2年に東京国立博物館で開催された日本書紀成立1300年特別展「出雲と大和」に、出雲を代表する仏像として出展されました。
 右上の薬師如来、日光菩薩・月光菩薩の2体はシャープで深い彫りの衣文線がくっきりみられることから、平安時代前期の作と目されます。また、四天王像は朝廷にとっての大事な鎮護国家の主役です。
 例えば、奈良の東大寺は正式名称を「金光明四天王護国之寺」といって四天王の加護で国を護る寺といった意味合いです。要するに、薬師如来も四天王も都の朝廷の政治的権を示すもので、当時の朝廷にとっては林木が大事な場であったと考えられます。(I.K)

第479号(令和6年3月25日)
大寺古墳(大寺一号墳)
【写真:大寺一号墳】
 鳶巣地区は、古くから開けた地域と言われています。それ故に大寺薬師の仏像をはじめ多くの文化財が存在しています。今年度はそうした文化財について、ご紹介したいと思います。
 大寺古墳は、萬福寺の裏山(大寺山)の高さ30mの丘陵に築かれています。4世紀後半に造られたこの古墳は、出雲地域で最古の前方後円墳と考えられています。
 当時、出雲地方では四隅突出型墳丘墓が進化した方墳が主流でしたが、他地域(大和・吉備)が進出した影響により、前方後円墳が造られました。大寺一号墳の大きさは、全長52m、後円部の直径27m。葺石で覆われています。
 中央には竪穴式石室があり、長さ4m、幅0.6m~1m、深さ0.6m。鉄オノや鉄クワが出土していますが、残念ながら石室は破壊されています。石室は、天井石が外されていますが、切石造りの石棺式石室で、玄室の奥壁は1枚、側壁は2枚ずつの切石で築かれています。
 なお、この古墳は昭和5年、後円部頂上に祀られている守護神、秋葉さんの夜祭りを計画した地元消防団が草刈りを行った時に発見したものです。
(I.K)