このページは 鳶巣コミセン便り からの抜粋です。
| 第496号(令和7年9月5日) |
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| 大寺薬師(その1) ~ふるさと鳶巣物語から~ |
| 大寺薬師は、全国に誇る美術品ともいうべき仏像を多数安置している寺院にも拘らず、その創建についての根拠等を伝える文書は何一つありません。その歴史を語るには、どうしても人々の伝承に頼らなければなりません。 大寺薬師は、智春上人(ちしゅんしょうにん)によって、594年(推古2年)に創建され、北山の日本海側に位置する鰐淵地区別所町の鰐淵寺(がくえんじ)の創建と同時期と考えられています。 伝承では、741年(天平13年)に僧行基が諸国巡歴の途中「大寺」に留まって薬師如来をはじめ多くの仏像を刻み、金堂、阿弥陀堂、釈迦堂、観音堂、七重大塔などを建て、諸仏を安置し護国の道場としたと言われています。往時の「大寺」は、現在地から300メートル奥の通称「広瀬」にあったと言われていますが、1650年(慶安3年)の大洪水による山崩れのため、寺堂や仏像の多くが破壊、埋没しました。その後、地域住民が薬師如来坐像ほか残存の仏像を集め、現在地の萬福寺境内に三間四面の薬師堂を建立し安置しました。 薬師如来坐像1体、脇侍菩薩立像4体、四天王立像4体の合わせて9体が、1902年(明治35年)に国宝に指定されましたが、戦後、法律が変わり国指定の重要文化財となりました。また、これらの仏像と共に、十二神将(じゅうにしんしょう)も揃って祀られています。 【鳶巣の歴史を語ろう会】 |
| 第 493 号 (令和7年6月5日) |
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| 戦国の山城 鳶ヶ巣城(4)~ふるさと鳶巣物語から~ |
| 1569年(永禄12年)、出雲国の奪回を目指す尼子再興軍(山中鹿之助らが尼子勝久を擁して蜂起した軍)が、島根半島から上陸し、毛利方の城となっていた月山富田城への攻撃を始めます。この時も、鳶ヶ巣城は尼子攻めの拠点のひとつとなりました。それは、鳶ヶ巣城が日本海に面した杵築港から内陸港の平田に向かう物資が通過する重要拠点であったからだと思われます。こうしたことから、毛利元就(もうりもとなり)は、鳶ヶ巣山の山麓に広大な駐屯空間を増築したり、兵站機能(武器の修理や食料補給機能)を充実させたりしました。 1571年(元亀2年)毛利軍は、尼子方の出雲西部の拠点である高瀬城(斐川町)の米原綱寛(よねはらつなひろ)を攻め降伏させたり、尼子再興軍の拠点となった松江の新山城(真山城)から退却させたりなどし、尼子再興軍を出雲国から一掃しました。 1582年(天正10年)、城主となった宍道隆慶(しんじたかよし)の子政慶(まさよし)による鳶ヶ巣城の改築が完成します。しかしながら、1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いで西軍が敗れ、総大将であった毛利輝元(もうりてるもと)の領地が周防と長門に縮小されたことから、宍道政慶も毛利氏に随行し萩に行くことになりました。城主を失った鳶ヶ巣城は、自然廃城となっていきました。 【鳶巣の歴史を語ろう会】 |
| 第492号(令和7年5月2日) |
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| 国の山城 鳶ヶ巣城(3)~ふるさと鳶巣物語から~ |
| 1528年(享禄元年)に家督を継ぎ、山陽側で勢力を誇っていた大内義隆(おおうちよしたか)が、1551年(天文20年)に家臣の陶晴賢(すえはるたか)のクーデターにより自害し、その陶晴賢も毛利元就(もうりもとなり)によって自害に追い込まれました。こうして力をつけてきた毛利元就は、1560年(永禄3年)に尼子晴久(あまごはるひさ)が死没したことを受け、尼子攻めを行うことにしました。 1562年(永禄5年)毛利元就は、鳶ヶ巣城を甲城(つめしろ)とし、尼子氏攻略の拠点としました。この時、鳶ヶ巣城には鉄砲部隊を配置しました。毛利軍に従軍した宍道隆慶(しんじたかよし)と政慶(まさよし)は、20年振りに城主に復帰しました。 約4年続いた月山富田城攻防戦は、毛利氏の勝利に終わり、出雲国は毛利氏の支配するところとなりました。宍道氏は、この戦いの功績により秋鹿郷の一部、島根郡の一部を加増され、北山手各郡の武将を支配する地位に立たされました。 そして、鳶ヶ巣城主宍道隆慶は、城下のまちづくりに尽力するようになります。まず、長年の戦乱で疲弊した農村の復興と荒れ果てた社寺の再建修築に努めました。鰐淵寺や日御碕神社の造営、霊雲寺の移転改築、都我利神社、伊努神社の遷宮などに多額の造営費を寄進したということが棟札からも推察できます。 【鳶巣の歴史を語ろう会】 |
| 第 491 号 (令和7年4月7日) |
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| 戦国の山城 鳶ヶ巣城の歴史(2) |
| 大永年間(1520年~30年)になると、尼子経久(あまごつねひさ)は、山 陰山陽の11州(出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備後、備中、備前、石見、播磨、安芸)に勢力を伸ばし、周防や長門、北九州に勢力を振るった大内義隆(おおうちよしたか)と中国地方の覇権を争う雄将となっていました。 しかし、経久の子政久(まさひさ)が阿用の戦いで討死し、経久も高齢となったことなどから、孫の晴久(はるひさ)に頭領を譲りました。そうした中、播磨や安芸など各地の武将が反旗を翻したことから、制圧を試み1541年(天文10年)に、安芸国の郡山城に大軍を送りましたが、毛利・大内の連合軍に撃退され大敗してしまいました。 宍道氏は、尼子軍に加わり参戦しましたが形勢が悪いと見るや撤退しました。また、同年11月には、尼子経久が失意のうちに病没します。そして、宍道氏と尼子氏の仲は修復できない状況になっていきました。 翌1542年、大内義隆は毛利元就と共に、尼子氏の居城月山富田城攻めを行います。宍道氏は大内・毛利連合軍に加わり尼子攻めに参戦します。鳶ヶ巣城は、大内軍の湖北作戦の基地として重要な役割を担いました。しかしながら、大内・毛利連合軍は大敗してしまい、城主宍道隆慶(しんじたかよし)は、籠城して防戦に努めましたが落城してしまいました。 そして、宍道氏は、周防(山口)へ大内氏を頼って逃げ延びました。約30年続いた鳶ヶ巣城は城主の無い城となりましたが、鳶ヶ巣城には、尼子方の武将が在番していたという伝えも残っています。 【鳶巣の歴史を語ろう会】 |

















